昭和51年08月24日 朝の御理解
御理解 第70節
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」
万物の霊長としての値打ちと言うのは、心がいつも平生でありいつも心が喜びに満ちておる、そういう心の状態が万物の霊長としての値打ちです。万物の霊長としての値打ちを欠いでおる、なら喜びがなくいつも心が不安で、そしてひょう心の中に不平不足があって、これは万物の霊長としての値打ちを持ちながら、万物の霊長としての値打ちを発揮し出来ないと言う事になります。
金光様の御信心は私は、万物の霊長としての値打ちを持って居るのですから、それを本当に万物の霊長たらしめる精進が、金光様の御信心だと思うです。してみると世の中には人間の面だけはして居る、格好だけはして居るけれども。万物の霊長としての値打ちを欠いて居る人が、まずは殆どだと言う様な事に成りますね。不平不足があっちゃならない、不安がない心配がない。いわゆるお徳を受けた姿が、私は万物の霊長としての値打ちだと思うです。だからお徳を受けるということは特別の様に思いますけれども。
特別の事でなくて人間が生まれて来る時に頂いて居る、霊長としてのその値打ちを値打ちたらしめる生き方、精進をする事だいうことです。例えば冷血動物といわれる、蛇とか蛙とかいった様な小動物でも例えば、降り照りの事が分かるという。自分に危険なら危険が身に迫って来ると、それを予知する事が出来る。ですから自分で自分を保護する手立てをするといわれます。蛇なんかが大水の入る前にゃみんな上に上に登って行く。だから蛇が木なんかに登ったりしてますと。
だから近い内に大水がはいるな、高水が入るなと言う風に申します。いわゆるそのうまぁ霊感とでも申しましょうかね、確かにそういう冷血動物ですらもそうです。いうなら降る照るの事が分かると言う位です。ですからそこには不安がないのです。ところが人間には不安がある心配がある。不平がある不足がある。冷血動物にもいうならば劣った様な、状態に心が成ってしまっておる。信心させて頂いて段々おかげを頂いて参りますと、第一有り難い勿体無いと言う、心が有り難いという心が頂けて来るようになる。
だからそのう有り難いという心が頂けて来る様な、あり方に成らなければ信心じゃない。自分の心の中にこの有り難いがある限り心配はない。先日もある人が熱心に信心を致しとります。その人が色々まぁ保証人に立ってやって。然も大変無理な所と聞いておる。本当のそのうしてやっておる人もそれをして貰った人も、やはり此処に参って来る訳です。ある日大変もう有り難かった、本当に有り難いと思うておる所へ、その人がやって来て、もうまぁ言うならば、銀行の信用もなからなければどうにも出来ない。
その人の印を貰ってようやく立ち行っておる。まぁ御神意を頂いて神様が押してやれといわれるから捺してやっておる。ところがその人が来てから又印を捺してやってくれと言った様な事を。言って見えられた時にもう有り難うして有り難うして、もうこの頃どんこんされんごと有り難いという話をせしゃった。そしたら今度印を捺してやる本人の方で、有り難いと思うておった人がですね、途端にくうっとなってしもうてから、もう有り難いものはどこかへ行ってしもうたと言うて、一晩中考えてけど有り難くなった。
そして此処へ参りをまぁして参りましてその事を話した。私も聞いておってですね、あのうほんなこてあのう、片一方は難儀困惑いわばしておられる訳です。誰ぁれも判のもちろん捺してやりなんかありゃしません。親戚の者ですら捺してやらんのです。銀行には何百万という金があるのに、いつも判を捺してやっておる訳です。それも此処で親先生が捺してやれと言いなさるけん捺してやりょうるとです。
その人が信心本当になんとはなしに有り難ぁいと思うておる所に、その人がやって来てからまた判を捺してやってくれという。それまでは良かった。ところがもう有り難うして有り難うしてという、その話を聞いて居っておったら、こんだこっちがくうっとなってしまう位に有り難くなくなってきたと言うのです。私はその気持ちが分かるような気がします。だからなら有り難いと言うて居っても、自分の有り難いというものは、本当のものじゃなかったなと悟った訳です。
なら判を捺してやるこの人、只親先生が捺してやれと仰るから捺してやっておるだけであって。もちろん信心を抜きにしたらとても捺してやれるはずは無いと、もう財産も無ければ何ぁにも無い人に、然も何百万と然もいつも重ね重ねですから、捺してやれる筈はないのです。それをまぁ言うならば捺してやる事が有り難いとまでは頂けてないけど、親先生が捺してやれと仰るから、捺してやっているだけのこと。だからもう捺して貰うて居る捺してもろうておる人は、やっぱり熱心にお参りを。
二人共熱心に参ってさして来る訳ですどっちも、そしてその判を捺して貰いに行ってから、有り難うして有り難うしてと言う。何んば有り難いのかの言う訳です。とてもこげな迷惑を掛けとってから、済みませんと言った様なあれも無く、只有り難うして有り難うして堪えん。だからとにかく信心でいう有り難いというのはね、これは私と久保山先生の話を例を取りますけども、決して私と久保山先生だけではなかった。もうそれこそ難儀困惑これ以上んお難儀が有ろうかという難儀の中にあってもです。
もう本当に私は有り難かったです。だからそのう有り難かっただけでなくてです、そこにゃ何か知らん例えば尊いものがあったと私は思うです。本当にそういう例えばこういう難儀な中に、有り難い信心とはなんと有り難いもので有ろうか、丁度今日正義先生が来とりますが、その正義先生当りが例えばならあのう、私の有り難いと言うそれは言う言わんは別としてです、それこそ御光の差す様だったというとります。真に有り難いというものはもうそんなもんです。
人が有り難かったと言うにその有り難いのを消して仕舞う様な有り難いであるなら、それは本当なもんじゃないです。だからこれは丁度変質者いうならば変態の人がです、例えば叩かれてニコニコ笑うようなあれがあるというですね。快虐心というですか、言うならそういうものであったら、本当なるほど信心は阿片だといった人が有るそうですがです、阿片と言われても仕方がない。相手の人が有り難かったのが、もうとても有り難うして有り難うして堪えん。
難儀して居るのが有り難いと聞いてから、有り難かったのが消えてしもうたち。有り難いというものに言うならこう水を掛けるような、有り難いのは本当のものじゃないし。また今まで有り難いと思うておったけれど、水を掛けられて消えてしまう様な有り難いもうこりゃほんな有り難いということになりますね。私は今日の御理解をその二人の方達が、恐らく今日来てから今の御理解を聞くでしょう。毎日日参して来るのですから。はぁこりゃ私の事を言いよんなさるばいないやと思うて聞くだろう。
そして本当に悟って貰いたいです。自分の有り難いと言うのが如何に本当のものじゃないかと言う事を、真に有り難いと思う心にすぐにおかげの始め、もうみかげにはみかげが伴わなければおかんのです。そのおかげが伴わずして只人に迷惑を掛けて居るだけで、人が有り難いと言うのを一遍に消してしまう様な有り難さであってはです、それは言うならば変態的有り難さだと言われても仕方がない。本当に難儀致しとりましてもです、その真に有り難いと言う心にはです、もう必ずもうそれにはそれなりのおかげが伴うです。
私は思うのにね万物の霊長としての値打ちというものはです、人間が生まれて来る時に、神様の分身神様の分霊を頂いとる。もうそれで神様と同んなじものを頂いとるのですけれども。もう年を取るに従って我欲が付いて来る、我情が付いて来てそれこそ似ても似つかない心の状態になってしまって。そこにあるものは不安であり焦燥であり、喜びどころか人を妬んだり人を憎んだり、ありとあらゆるおかげの受けられない心の状態が心の中に一杯出来て来る。
私は昨日テレビを見せて頂きよったら、あのう丸山応擧と言う人の幽霊のあのう軸が、テレビにこう出とった。そしてもう本当に私それを見ながら思うて直感した事は、合楽にの顔に似とるのに驚いたですがね。で私がお取次さして頂くもう。もうそれ真から悔やまっしゃる人があるです。その二人の人の顔に似ておるのに驚いたんです。この幽霊の目元がまぁ一人にまぁ似ちゃる。この人の口元がにこっと笑うたら幽霊ですから、余計凄みがあるですもんね。
それのにこっと笑うた様な感じが、あの人の口元に様う似とると言うのです。あぁこれじゃ主人が他に女を持ったり、あのうやっぱり悔やみやならん様な事が続く筈だと、私は思いましたその幽霊の絵を見てから。私が二人の今届けをさしてだからもう本当にこの悔やみ手というのは、幽霊のごたる顔になるですよ悔やみ依ると。だから人が寄り付かんだけじゃなくて、物やら金やら寄り付かん筈です。いっちょ銘々の顔を見てみなさい、はぁこれじゃ物やら金やら寄り付かん筈だという顔に見える。
だから人相と言うものは変わるです。心の状態が有り難い勿体無いになって来るとです、心がなんとはなしに変われば顔色も変わってくるです。信心が出来いわゆる万物の霊長が苗字が少しずつ出来て来るからです。いうならば悔やみ顔になって来る。それはもういよいよ幽霊の様な顔になる。いつも寂しい感じ。そうけんちうてにこっと笑うたっちゃ却って気色の悪かごたる。心からいわば有り難くないからです。
そこでその万物の霊長としての値打ちというのは、私共が持って生まれたその心に我情がついておる、我欲が付いておる、その我情がその我欲が少しずつでも取り外す、されていくと言う事。我情我欲を取る事によって、我が身が神徳の中に生かされておるという事が分かり、神徳の中に生かされておるから不安はないと言う事になるのです。どんないっときでも心配はないと言う事になるのです。そしていわば不安はない心配はない。又はそれに人間の幸の条件が段々足ろうて来ると言う様になる。
おかげにおかげを頂き続けて行けれる。おかげを信心に依って頂かねばならん。道理に合う信心をせねばならんと。道理に合う信心をさせて頂いとるとです、そういうことになって来るおかげ。そこでいうならばその我情我欲を取るという事はです、どういう事かというと信心に依るところの真に有り難いと言う心をもってしなければ、我情我欲を取る事は出来ません。
先日からここんところの七十節を頂いた時に頂きました御理解ですけれど。道理に合う信心をせねばならぬ。小さい受け物を持って来て大きなおかげを下さいと言うのは。それはいよいよ道理に合わない信心だというのです。大きなおかげが欲しいなら大きな私にならせて頂く事、先に願はねばならんと言う事です。先月いわば太れ太れと言う。太く成ろうという信心です。先ずだから自分が太くならにゃいけん。
そこには不平も言わにゃおられん、不足を言わなければおれない様な事であっても、それを一生懸命にはぁ是によって太くならせて下さるんだなぁと思うとです、きついけれども心有り難いものが生まれて来る。これによって私は昨日その有り難かったけれども。その有り難い有り難いと言うのを聞きよったから、却ってもう有り難くなくて昨日から今日までもそのう、何んか知らん淋しゅうて堪えん心が起きて来たと言う人に、あんたも大きなおかげを頂かんならん。
だからそう言う時にです大きうなれ大きうなれという、神様のお声が掛かってると思うて、それを大きな心を受ける、太い心を受けるこれが大きくなる心を受ける。これが大きくなる薬だ太く成らせてもらう肥料だと思うたら良いですねとまぁ申しました事でした。だからそう言う精進が絶えずなされて行かにゃならん。こんなに道理に合うた話はない。大きなおかげの受け物を持たずに、大きなおかげを下さいと願うのは、こんなに道理に合わない筈はない。それでは開ける筈はないという訳です。
だから道理に合う信心が、受け物を作る事を先にして、おかげを願わして貰うと言う信心に、成らなければならんけども、おかげを頂くとおかげで、只おかげだけを、有り難い勿体無いと言うておるのですから、人が水を掛けるともう有り難くなくなってしまう。又一方では有り難い勿体無いと言うておるけれども。それにおかげが一つも伴わない有り難いは、それは変質的な有り難いであって本当ではないと言う事である。
本当に有り難いと言うものは、必ずそれにおかげが伴うもの、本当の有り難いならばね、それこそ人が水を差す様な事を言うても、それでシュンとしてしまうと言った様な事はないと言う、間違いのないそういう有り難いと言うものを、求めて行かねばならない。それをならおかげおかげと追求する信心からは、おかげを頂いても頂いた時には有り難いけれども、頂かなかったら有り難くないという結果になってしまう。
昨日或方がお願いさして頂いて、だいぶ信心も段々分かって来た、信心の有り難さが有り難い、有り難いとまぁ言うておられた。ところが沢山なあのう葡萄を頂きました。それでこれからはこの葡萄で食べるおかげでなくて、この葡萄を葡萄酒にして行くおかげを頂かなければならんということを、その方に聞いてもらった。葡萄を頂いていうならおかげを頂いて有り難い、有り難いと言うているのである。これからは信心を頂いて有り難い、有り難いにならなければ行けないと言う訳です。
葡萄で食べる美味しさがおかげおかげであるならばです、その元とは頂いた葡萄は食べずに貯めておいて、そしてそれでなら葡萄酒を造ると言う。言うなら有り難き勿体無き畏れ多きが、言うなら信心の喜びが、本当に頂ける信心にならなければならないよと、申しました事ですけれども。今日の私が皆さんに聞いて頂いたのは、その事を聞いて頂いた訳です。ただ自分の願いが成就する、それで有り難い有り難いというておるのは、本当の有り難しではないという事です。
又は変質的な有り難いというものでも出来ない、真に有り難いと言うものでなければならん。真に有り難いというのは、人間は万物の霊長であるから、万物をみて道理に合う信心をせねばならんいうのが、信心をさして貰ういうならば万物の霊長としての値打ちを、いよいよ発揮出きれるおかげを頂きたいという、信心にならなければ成らないと言う事です。万物の霊長としての値打ちのある、信心をさせて貰わなければいけん、そして神様に頂いておる。
言うならば神様の分身である、私共の霊長としてのお徳というもの霊徳です。を身に付けて行く所に不安はない心配はない。後に残るものは有り難いものばかり、そういう有り難いであって、本当の有り難いと言う事になるのです。自分の霊徳というものが磨き出される所から生れて来る所の、有り難いならば間違いが有りません。只自分の霊徳というものを研ぎもせなけれ、改まりもせずに有り難いと言うておるのは。先ず間違のない変質的な有り難さです。
そういう有り難さは人の有り難いものまで打ち消してしまうです。だから霊長としての値打ちある信心、霊長としての値打ちある信心を目指す信心、大きなおかげを頂きたいならば大きくならなきゃいけません。大きなおかげを頂きたいなら大きな受けものを持って来なければ出来ません。その大きゅうならせて頂くと言うところに、焦点を置いての信心であるならばです。人から水差される様な事が有ってもしゅんとしません。
はぁ神様がこげんして水を掛けよんなさるばってん、それこそびくともせんなおかげを頂かせて貰える訳なんです。ただ自分に都合の良い事だけが、おかげのように思うておるから、自分の思うようにならなかったりすると、有り難いが一遍に消えてしまう。ここで初めてです今日二人共見えて、今日の御理解を聞いて下さる事だろう。そして自分たちの信心が本当の信心を目指してないと言う事を分かって下さるだろう。とまぁ思いますがですなら今朝お参りし合うておられる。
皆さんもやっぱり同じところに立って、やっぱり自分達も同じ事じゃなと、本当に霊長としての値打ちを頂く事の為に、信心しよるのじゃなくて、少しでも楽に成りたい、少しでもおかげを頂きたいだけの信心であるという人も、私はまだ沢山あるだろうと思います。それでは霊長としての値打ちある信心とは言えません。いよいよ霊長としての値打ち、私が思いよる事は神様が思いござる事、と自分で確信がもてれる位なおかげを皆さん身に付けて行く事を、目指す信心でなからなければならんと思うですね。
どうぞ。